戦争の傷跡を今なお色濃く残す島

上の写真、何の変哲も無い民家のように見えるけれど、アノ竹中工務店のトラック支社後です。
家の前に見える側溝は現地の人が造ったものではなく、60年も昔に日本開拓民が造り上げたものだそうです。家の前の道も、かつては舗装され、車が走っていたそうです。
デュブロン島=別名・夏島は第2次世界大戦までは、まさしく栄華を極めていたようです。
呉服屋に下駄屋、映画館やタクシー会社もあったそうですが、今のこのデュブロン島からはそれを想像出来ません。繁華街だったという周辺は、今はジャングルなのです。
デュブロン島はかつて夏島と呼ばれ、トラック諸島の中心地だったそうだが、現在の首都はモエン島(春島)です。
チュークには春夏秋冬、東西南北e.tc.日本語の島が沢山あります。そして現地の言葉でも“ウンドウカイ”、“ヨーイドン”、“ハチマキ”、“タマ(電球)”など、植民地当時の日本語がそのまま今に使い続けられています。日本の影響を色濃く残す島なのです。
たった2時間強の訪問だったけれど、行って良かったと、今つくづく思います。
私たちはあまりに戦争の実体を知らなすぎる。テレビや文献、口頭では何度か見聞きしていても、こうやって目の前に過去の現実を見せつけられると、いかに今の自分たちが過去の歴史と繋がって生きているのかが実感できました。
慰霊碑に線香をともし、手を合わせていたら、現地の若者が珍しがって線香の香りを嗅いでいました。もしかすると、今ではこの島の若い人々にとっても、日本に占領されていた時代のことは“関係ない事”と忘れ去られていくのかもしれません。
水上飛行利用滑走路跡。その名残で、この辺りの地名はコウクウショー 海に面するトーチカの入り口。島の高校生達がたむろしていた 入港してきた船に給油するためのオイル・タンク。砲撃のあとが痛々しい 水位の干満をこれで計測していた。当時の米軍もこのデータを利用したそうだ
かつての夏島のメインストリート。花街もあったとは想像しがたい 島民に日本語教えていた学校。幸い空襲を逃れ、今では島の役場だ 海軍が残した領地を示す石碑。島民の敷地をこうやって奪い取ったそうだ 戦時中に使用された船のアンカーブイ。戦艦長門が使用していた
このジャングルのような島が、かつては日本軍の南方前線基地として栄華を極めていたとは、とうてい想像できません。花街もあって何週間もの船の生活を強いられた軍人さん達が、列をなして並んでいたそうだが、この風景の中では想像するのが難しい。 戦争が残したものは、いったい何だったのだろう? 日本語を外来語として話すチュークの人々にとって、日本は言葉と戦禍以外に何を残したのだろう。かつての記録を残すプレートに書かれていた「War in the Paradise」(楽園での戦争)の言葉が胸に残りました。
番外編
右の写真は製氷工場の内部。これも夏島にあった。これが建てられたのは約20数年前のことらしい。費用は日本政府が出したそうだ。しかし、建てられてから今まで、一度も使用されたことは無いそうだ。見ての通りの廃墟の工場だ。しかも驚いたことに、近々、修繕するらしい。
いったい、何の目的があって日本政府はこんなバカげた税金の使い方をしているのだろう。モエン島の道路を整備してあげた方が、ずっとみんなにありがたがられるだろうに。
NGOだかODAだか知らないけれど、このプロジェクトに了承の判を押した政治家や役人に見せてやりたい。机の上では誰も腹を空かせてはいない。現地の人々が一番欲しているものも知らないで、日本という国は一体全体どうなっているのだろう。